アラブ音楽CDを制作 arab-music.com
松田嘉子のエッセー No.1

アラブ音楽CDを制作

ナイ挿絵  1994年の日本の夏は観測史に残る猛暑で、スーパー・チャンネルだったかユーロ・ニュースだったか、東京の街で頭にミネラル・ウォーターのボトルを乗せて歩く人の姿が、適度なリアリティをもって映し出されていた。その頃私はチュニジアの首都チュニスにいて、毎日ウードを弾いて過ごしていた。もちろん異常気象は世界規模のもので、チュニスでも八月の半ばに、日陰で計測して47度という記録的な日があった。さすがにこの日ばかりは、砂漠を走っているわけでもないのに、車の窓から吹き込む風がドライヤーの熱風のようだった。翌日のチュニスっ子の話題は皆この「日陰で47度」であった。

 チュニジアというと、北アフリカに位置することから、何か熱帯のようなイメージを持つ人も少なくないが、首都チュニスなどは地中海を挟んでイタリアの南端と向かい合っており、気候も温暖である。カルタゴ、ハマメット、スース、ジェルバ島といった景勝地は、イタリア、フランス、ドイツなどから来る観光客で賑わい、シーズン中の高級ホテルは、コネなしでは泊まれないほどである。

 もっとも、観光とあまり縁のない私は毎年、春や夏の休暇を中心としてチュニスでアラブ古典音楽の研究を続けている。とくに1994年は、1枚のCDを制作した記念すべき年となった。

 私が指導を仰いでいるのはチュニス国立高等音楽院の教授たちだが、少し前から、そこで教鞭を執る一流の音楽家、演奏家でさえ、レコードなどの録音の機会にはあまり恵まれていないことに気がついていた。

 今日、一般的に言ってアラブ古典音楽の録音事情はよくない。アラブ音楽と緊密な関係にあるトルコでは、古典も含めて比較的音楽出版が盛んであると言ってよい。また、アラブ研究の盛んなヨーロッパでは、とくにフランスがアラブの歴史的録音物をよく保存しており、近年それを復刻しCD化している動きが目立っている。しかし、その他の国々では低調である。

 そこで私たちは、すぐれたチュニジアの芸術家たちの演奏を自分たちの手で録音、発表できないかと考えた。

 第一弾として、スラーフ・エッディン・マナー氏のナイの演奏をCDにすることを計画し、94年3月27日と28日の二日間、チュニス市内のスタジオ・ソテックスで録音を行なった。マナー氏は高等音楽院の教授で、チュニジアの代表的ナイ奏者の一人である。伴奏者に、チェロのアブデルカリム・ハリル、タール(パーカッション)のズバィエル・メッサイの二人を加え、ナイのタクスィーム(旋法にもとづく即興演奏)と伝統楽曲を、約70分にわたって録音した。94年夏には日本の独立系のレコード会社から、CD『チュニジアのナイ/スラーフ・エッディン・マナー』(パストラル・レコード)として出版することができた。

 ナイは、アラブ古典音楽に用いられる葦製の笛である。アンサンブルではとくに高音部を受け持ち、華やかな装飾とともに、味わい深い音色を奏でる。アラブ圏、トルコ、イランではよく知られている重要な楽器だが、それ以外では馴染みが薄いかもしれない。とくに日本ではまだほとんど知られていない。

 実際の演奏を聴く機会も少なく、また入手できる録音物もあまりない状態では、正しい認識が生まれないのは当然である。これまで日本では、紹介される機会があっても適切な解説が少なかったり、あるいはもっと悪い場合は、誤った説明がなされたりしたために、楽器の奏法、機能、美意識などについて、とてつもない誤解が生じている場合もあった。

 今回制作したCDにおいては、ナイの構造や奏法をはじめとして、録音された楽曲ごとに旋法やリズムなど、詳しい解説を試みた。とくにチュニジアの旋法理論を具体例に沿って解説した点には、多少の自負がある。ただし、CDブックレットという枚数制約もあり、それぞれのタクスィームおよび楽曲に、十分に網羅的な解説を加えられなかった点は少し心残りである。

 今後は、より本格的なアナリーズの試みを順次発表していきたいと考えている。また、ウード演奏の機会も増やしていきたいと思う。そのように研究活動と演奏活動が有機的に結びついてこそ、この偉大な芸術ジャンルを身につけ、日本におけるアラブ古典音楽紹介に具体性を付加することが出来るだろう。

 最後にこれは予告編だが、1994年3月チュニスにおいて、ウードの世界的権威、アリ・スリティ教授のCDを録音、制作する。未発表曲も初録音の予定であり、乞うご期待である。(嘉・イラストも)


1995年3月・黒の会発行《黒の会通信》第15号に掲載したものに加筆訂正しました。


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