少女ヤスミーン arab-music.com
松田嘉子のエッセー No.4
ヤスミーン挿絵

少女ヤスミーン


 1997年2月26日夜、川崎市国際交流センターにおいて、シリア人ムハンマド・カーレリーの作・演出による、一人劇「少女ヤスミーンの夜明けと黄昏」を見た。この日が来日公演の最終日であった。

 無邪気でおちゃめな幼年時代に始まり、成長する過程での祖母や父からの厳しい命令とそれへの服従、淡い初恋、親の決めた結婚、妊娠、出産、・・・など、少女ヤスミーンの半生を、シリア人女優ナダ・ホムスィーが、55分間のマイムで演ずる。  実に簡素な舞台。中央の衝立の前に、大きな黒いヴェールとドレスが立ちはだかっている。その袖口から人の手先だけが出て、ヤスミーンに指図をしたり、数珠を手繰ったり、布などの物を投げたりする。また始終、大きな声でヤスミーンを叱咤する(この手と声は、日本人の若い女性がなさっていたが、お名前を忘れてしまった)。それがヤスミーンのおばあさんなのだ。その前には、大きな籠や水差しなどの道具と、レク(タンバリン)。舞台左手にはジャスミン(アラビア語でヤスミーン)の木と、数枚の画用紙や羽ペン。右手には、見慣れた布や小さい籠があるばかり。

 これら最小限の小道具や衣装が、アラブの日常や伝統をよく反映していた。加えてヤスミーンの動作、顔の表情、細かい仕草のひとつひとつが、文化に裏づけられた意味を確実に伝えてくる。そのテンポもよい。音楽も、テープだったがアラブ音楽が使われていて、民謡風の音楽、ムワッシャハー(古典歌曲)、ザッファのリズムに乗った婚礼の歌、あるいはウード独奏など、随所で雰囲気を出していた。

 だからセリフらしいセリフはなくとも、すべてが理解しやすく、劇は進行していった。なんと、父や夫の役も、ナダ・ホムスィーが、一人で演じるのだった。すばやく衝立の後ろに回ったかと思うと、男物の衣装や帽子はちょっとぶかぶかだけど、髭などつけて現れる。それがなかなかユーモラスだ。

 少女の名前にもなっているジャスミンの白い小さな花は、溌剌としたすがすがしい心の象徴ではなかったろうか。小鳥を見ては喜び、羽ペンでさらさらと絵を描き、レクを鳴らして戯れる彼女は、本来、豊かな感性と才能に恵まれた人間だ。だが、おばあさんの「ヤスミーン!!」という威圧的な声に怯え、仕方なく命令された家事をこなす。水汲みに行かされるヤスミーンは、頭をすっぽりとスカーフで包み、人に顔を見られないようにしなければならない。その足取りは重い。いつしか、彼女の創造性は、押し殺されていく。子を産み、育て、掃除、裁縫、おばあさんの世話・・・、その絶え間ない繰り返し。

 ある日、ついにヤスミーンは反抗し、おばあさんに襲いかかって、そのヴェールを剥ぎ取る。すると、そこには何もない。空虚な首を見つめ、茫然とたたずむヤスミーン。彼女はまた、この抗いようもない日常に、大きな伝統の流れの中に、引き戻されるのか・・・。このクライマックスは印象的であった。

 劇を見ている間、私の頭の中には知っているいろんな女性たちの顔が浮かび、ヤスミーンと重なる瞬間があった。もっとも、私の知人の多くはチュニジア人だから、他のアラブ諸国に較べると、一般にはずいぶんと自由で、ヨーロッパナイズされた社会生活を送っている。

 チュニジアは1956年の独立直後から、ブルギバ前大統領のもと、重婚の禁止や男女平等、女性の側からの離婚申し立ての権利など、進歩的な政策を次々と打ち出した。日本ではよく、ムスリムの女性は皆黒いヴェールを着用しているものと思われているが、都市部のチュニスではまず、見かけない。お年寄りの女性が白い布や柄物のスカーフを被っていることはある。しかし若い人は、美しい髪をさっそうとなびかせて歩いている。それどころか、ミニスカートや派手なアクセサリーなど、みな思い思いにファッションを楽しんでいる。

 女性の社会進出も進み、高学歴を経て、弁護士や医者、国会議員など、高い地位につく女性も決して珍しくない。
 がしかし、ひとたび伝統的な生活を覗くと、やはりある種の男女の役割が抑圧的にはたらいていることも解る。
 家庭では、男の子が大事にされる。ある有名な政治家は、後継ぎの男子を産まないという理由で、奥さんを二人も離婚したと言われている。
 またある音楽家の家では、お父さんの職業である音楽を勉強させてもらっているのは、五人の子供のうちの二人の男子だけだった。一方、料理や食事の世話、後かたづけ、掃除、洗濯といった家事は、お母さんと娘たちの、女性だけでやっていた。長女は地方の大学に入ったが、次女の方は17歳かそこらで結婚した。

 もしかしたら若い女性にとって、恋愛に身を投じ、それを成就させるためのもっとも手っ取り早い手段が、結婚なのかもしれない。街をボーイフレンドと腕を組んで歩くとか、女性の独り暮らしとか、ましてや同棲などは、まだまだ世間から白い眼で見られる。とすれば、彼氏が見つかったら早く婚約式を挙げ、それから数年のうちに結婚してしまうのがいい。

 しかし、もちろん結婚生活は楽なことばかりではない。
 チュニジアでは、家族や親戚の結びつきが強いので、だいたい親類どうしが近くに住んでいることも多いし、何かことがあるとすぐに大勢で集まる。夫婦双方の、親兄弟、祖父母、おじ、おば、いとこたち、またその家族や友人など、20人くらいが一堂に会しているのは、よく見かける光景だ。

 東京に住むチュニジア人夫婦と長くつきあっていた。その夫は日本の大学で博士号を取った。彼らは新婚生活を日本で始め、その後娘が生まれて、その娘が二歳半くらいの時に帰国した。妻は、もちろん親類を愛しているものの、故郷に帰って住みたくはなかった。彼女は言う。「前に里帰りしたとき、周囲から子どもの育て方や食べ物のことをいろいろ言われて、とても嫌だった。向こうで一度、この娘はひどい病気になったのよ。私は、私の好きなように、この娘を育てたい。ピアノだって習わせたいの。私は自分の自由が欲しい。」
 帰国後結局、彼らは二人の出身地の街ではなく、チュニスに新居を構えた。今後の彼女の希望は、結婚前のように外で働くことだが、就職難のチュニスで、はたして仕事が見つかるかどうか。

 一般に男女の役割分担ははっきりしていて、外での買い物は、たいがい夫の仕事である。多くの場合、男性が財布を握っているから。市場で、よいものを選び、少しでも安く手に入れるのが夫の腕の見せどころである。

 買い物の後なのか、早く仕事が退けたのか、街角のカフェでは、狭いところにびっしりと小さなテーブルと椅子を並べて、男たちが集まっている。トルココーヒーかミントティーをすすりながら、またはシーシャ(水パイプ)をやりながら、とめどないおしゃべりに興じている。よく言われるように、カフェは男性の大事な情報交換の場なのだ。チュニスの目抜き通りにある外国人観光客向けのカフェは別として、小さな街角のカフェは、男だけの場所である。

 私の知るアラブ音楽の世界で言うなら、やはり音楽家は、歌手を除いて圧倒的に男性が中心である。たとえばウードを趣味で習っている女の人はたくさんいても、職業音楽家としての女性ウード奏者はめったにいない。

 余談だが、駐日チュニジア大使の家で、フランス語圏の大使たちの晩餐会が開かれ、私がそこで演奏したことがあった。招待者の一人、パレスチナの大使が眼を丸くして言った。「女性のウード奏者を見たのは初めてです!」
 もっともチュニスにはひとつ、女性だけのオーケストラもあるのだが、あまり注目はされていない。

 「少女ヤスミーンの夜明けと黄昏」に話を戻すと、作者のムハンマド・カーレリーと女優のナダ・ホムスィーは、シリアに「モザイク・アートプロダクション」という制作の拠点を持っているそうだ。今回ムハンマド・カーレリーは来日していなかったが、ナダ・ホムスィーとは舞台の後、短い会話をかわすことができた。小柄だが、眼に輝きのある、たくましい人だった。私が話しかけると、嬉しそうに、「え、ウードをやるって?どこで習ったの?じゃあ、ムニール・バシールのウード、わかったでしょ?劇は気に入ってくれた?」と、矢継ぎ早に質問してきた。

 「少女ヤスミーンの夜明けと黄昏」が、アラブ社会批判という側面を持っているのは当然である。しかし、むしろ作者は、現実を冷静に直視し、その断片と本質を、たくみな象徴を用い、すぐれたパフォーマンス芸術に昇華させて提示しているのだと思う。答えなど与えていない。

 もちろん周知のように、アラブ女性にとってもっと不幸な環境はいくらでもある。がしかし、そういった新聞が書きたてるセンセーショナルな記事の中ではなく、このヤスミーンの日常の中にこそ、本当のアラブ女性の生活があるのではないだろうか。 むしろ、社会体制や文化がどうであれ、個々の恋愛や結婚、家族という枠の中で味わう女性たちの苦悩は、私たちのそれと同じであり、アラブの女性たちがその社会の枠組みの中で、そうした苦悩をどう解決し、乗り越えてゆくかを深く想像させられるのだ。そして、それが共感と連帯の核となる。

 数枚の衣装と小道具を鞄に詰めて、ナダは今後も一人で世界を飛び回るのだろうか。言葉の壁、文化の壁を越えて、各地できっと多くの人々の感動を呼ぶに違いない。(嘉・イラストも)

1997年6月・第三次《同時代》第2号に掲載したものに加筆訂正しました。原題は、『「少女ヤスミーンの夜明けと黄昏」を見て〜チュニジア女性のことなど〜』です。


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