「館の沈黙」と音楽 (ある歌い女の思い出) arab-music.com arab-music.com arab-music.com
松田嘉子のエッセー No.6

館の沈黙・写真

チュニジア映画「館の沈黙」と音楽


 「館の沈黙」(アラビア語原題「サムトゥル・カスル」/フランス語題「レ・スィランス・デュ・パレ」)は、チュニジアの女性監督ムフィダ・トゥラトゥリ1994年の作品。脚本や編集の仕事で長い経験を積んだ後、初監督作品としてのこの作品で、同年カルタゴ映画祭の長編部門で、金賞(グランプリ)を獲得した。
 映画はアラビア語(チュニジア方言)で、フランス語字幕つき。今回の上映では、あいにく日本語字幕がつかないとのこと。そこで私の役割の半分は、「あらすじ」によって映画の内容を分かりやすくすることにあると思い、なるべく詳しいものを書くよう試みた。


<あらすじ>
 始まりのシーンは婚礼の宴。25才の歌手アリアは、気分がすぐれず、早々に仕事場から引き上げた。彼女はロトフィと同棲し、妊娠している。ロトフィは子を望んでいない。

 そんな時、アリアが少女時代を過ごした館の主、シディ・アリ(シディは敬称)が亡くなったという知らせが届く。館を10年ぶりに訪ねるアリア。ある婚約式の夜を最後に、彼女は逃げるようにその館を出たのだった。喪に服す婦人たちに挨拶すると、アリアは老女ハルティハッダの部屋を訪ね、話を聴く。そして過去の記憶を蘇らせる・・・。

 話はチュニジア独立前の1950年代にまでさかのぼる。他のアフリカやアラブ諸国と同様、チュニジアも19世紀末からフランスの「保護国」(植民地)とされていた。統治者としてベイが存在していたが傀儡と化し、国は事実上フランスに支配され、上流階級は腐敗していた。民衆の間ではデストゥール派を中心に独立運動が激化し、ついにはデモ隊とフランス軍の衝突が起きるようになっていた。

 舞台はベイの家系にあたる領主の広大な館。そこに、老主人とその一族が暮らしていた。主要な人物は、老主人の息子たちであるアリとベシール。アリは芸術を愛し、下々の者の心も解る心優しい男だが、ベシールは因習的な男だ。アリの妻ラジュナイナは子が産めなかった。ベシールと妻レッラの間には、息子セリムと娘サラがいる。  アリアの母ヘディジャは、館に住込みで働く召使いだった。そしてアリの愛人でもある。他にも10数人の使用人たちがいるが、そのうち女たちは、館の外に出ることさえ出来ない。中でも美しいヘディジャは、夜会が催される時はダンサーとしても踊るのだった。

 アリアは父を知らない。館の娘サラとは同じ日に生まれ、身分の差にもかかわらず、仲よく育った。しかし思春期を迎え、自分や母の生い立ち、周囲の人間関係に敏感になる。「父親は誰なの?」と質問して、母を苦しめる。やがて母とアリの関係にも気づき、苦しみを抱え込んで病気になる。

 アリアは音楽に惹かれる、感受性の強い子だ。サラがウードを習わせてもらっているのが羨ましい。微妙な年齢の娘に思い悩む母ヘディジャは、なけなしの金をはたいてアリアにウードを買い与える。 彼女は狂喜し、歌の才能を発揮する。

 そんなある日、ロトフィが現れる。ロトフィは反体制の運動家で、警察に追われる身だが、サラの家庭教師となって館に身を隠す。ロトフィはアリアに言う。「君は迷っている。僕らの国のように。君はこんなところにいちゃいけない。すべては変わる・・・君はりっぱな歌手になるんだ・・・」アリアの心がロトフィに揺れ動くのを、母は心配する。

 ある時、アリアは母に代わって夜会をつとめた。彼女の歌は大評判だった。ベシールの欲望がうづき、彼はヘディジャに、しつこく娘を自分の部屋によこすように言う。成長した娘を男たちから守ろうとしながら、一方で女としての一抹の寂しさを味わうヘディジャ。しかし、皮肉にもその時、ヘディジャはまた妊娠していた。  後半のクライマックスで、アリアが母ヘディジャと言い争う場面。

「私の父親は誰?」
「・・・死んだわ」
「ウソ。夜、ベイたちの部屋へ上がってたでしょ。こんどは誰が妊娠させたの」
「もうあんたの顔なんか見たくない!あっちへ行って!」
「私だって!」(アリア、鏡を割り、手首を傷つける。母、驚いて手当てする。)
「なんで、こんなことを・・・。私があんたに何をしたっていうの。私はどうすればいいの」
(アリア、母を見つめて)
「私と一緒に逃げて」
「どこへ。身よりもないのよ」
「私、恐い。いつもの悪夢のよう・・。震えながら目が覚めて、何も覚えてないの。もう、気を失いたくない。お母さんは、どこから来たの?両親はどこにいるの?一度も、話してくれたことがないわ」
(母はアリアに、10才の頃、館に売られてきたことを打ち明ける。アリアは、)
「一度でも、ノーと言えば! もう、仕えない、私はあんたたちの所有物じゃない、と!」
「私はここで目覚め、ここで人生を過ごしたのよ。外へ出ることへの恐怖の中で・・・。今さら、どこへ行けというの?」

 この頃市街地では、大規模なスト。多くの死者や負傷者、逮捕者が出ていた。フランス政府は戒厳令をしき、事態を鎮圧しようする。ラジオからはしばしば、反体制の歌が流れたが、アリを除いて、館の主人たちは、その歌を厳しく禁じた。

 そんな折も折、サラの婚約式が盛大にとり行われようとしていた。外では民衆の多くの血が流されているというのに、館には着飾った上流階級の男女が集い、遊びに耽っていた。アリアはサラに請われて宴席で歌うが、突然中断し、別な歌を歌い始める。それは、あの禁じられた歌だった。「緑深きチュニジアの顔が、悲しみにゆがみ、星の光も消える・・・/あなたがたはチュニジアを、敵の手に渡した・・・」。客たちはつぎつぎと席を立って、帰っていく。

 同時に、母の悲劇が起きる。ひそかに堕胎薬を飲んでいたために死産、そして本人も死亡する。


<解説>
 映画は、アリアの現在と過去の回想シーンが、巧みに切替わりながら展開する。主人公アリアが歌手という設定もあって、音楽はこの作品においてとりわけ重要な役割を果たしている。それはおもに、ウード音楽、民衆の生活の歌、そしてウンム・クルスームなどの近代歌謡という三つのジャンルからなっている。

 少女アリアが最初に憧れた楽器がウードだった。アラブ古典音楽の主要楽器のひとつであるウードは、一般に高価で、裕福な家庭の子弟はしばしば教養としてウードのレッスンを受ける。

 映画の全編にわたって、あたかも過去と現在を結ぶ時間の糸のように流れてくるのは、チュニジアの若手ウード奏者で国際的にも評価の高い、アヌワル・ブラヒム(1957〜)の音楽である。彼はECMレコードのアーティストとして4枚のCDをリリースしている。「館の沈黙」には、"Conte de l'incroyable amour"(1992 ECM Records ECM1457)からテーマ曲他が選曲され、そのはりつめた繊細なウードの音が、「静寂」をいっそう際立せている。映画音楽としては1990年、フェリッド・ブーゲディール監督「チュニジアの少年(ハルファウィン)」を担当した他、モーリス・ベジャールとのコラボレーションなど、演劇やバレー芸術にもその才能を生かしている。アヌワルは私の友人なので、この映画は個人的にもお勧めである。

 実にこの館には、さまざまな静寂と沈黙が支配していた。囚われの女たちの嘆きも、不義の父親の名も、少女の叫びも、みな巨大な館の沈黙に、吸い込まれていった。そしてアリアの去った後は、彼女の名前さえ、誰も口にしなかったという。老いたハルティハッダがアリアに語る。「この館にはたったひとつ、掟があった。それは・・・沈黙という掟。」

 女たちはつらい日常を忘れようとするかのように、よく集まって歌う。子供の誕生を祝う歌、労働の歌、戯れ歌など。しかし、歌のなかには偶然のようにして、何かしらシディ・アリとアリアを暗示するような一節もある。たとえば、「私はその娘のために傷ついた/私たちと一緒に暮らし、そして背を向けて逃げていった、その娘のために・・・」。実はこの他にも随所で、歌の内容は、ストーリーとうまく関連づけられている。

 作品中、ラジオやレコードから流れてきたり、アリアが歌ったりする歌は、エジプトの女性歌手、ウンム・クルスーム(1904?〜75)の歌。ウンム・クルスームは「オリエントの星」と呼ばれ、その歌声はすべてのアラブ人の心を魅了した。作中度々歌われるのは「リッサ・ファキル」(M. アブデルファターハ作詞、リヤド・ソンバティ作曲)で、つぎのような歌詞で始まる。「私の心はもう一度、平安を取り戻せるだろうか?/ひとつの言葉が、再び過去を蘇らせてくれるだろうか?/ひとつの眼差が、情熱と優しさを、また信じさせてくれるだろうか?/すべては遠い昔のこと/すべては遠い昔のこと・・・」過去の思い出をたどることによって、自己を回復する行為に、対応している。そして実際、何らかの声や音、あるいは言葉によって、過去の場面は引き出されるのだ。

 サラの婚約式でアリアが最初に歌うのは、よく知られた「ガンニーリー・シュワイヤ」(ベイラム・トゥニスィ作詞、ザカリア・アフマド作曲)。「優しく歌って/そして私の眼をうけとめて/聴衆を踊らせ、こずえを震わせ、旅人を誘う歌を・・・」この歌も、歌手としてのアリアの存在そのものだ。

 ときには母に反抗し、母を責めたアリア。ヘディジャの死と同時に、アリアは館を出た。歌が、そしてロトフィが、自分を救ってくれるものと信じて。母には最後までできなかった、館からの逃亡。しかし、10年経った今、アリアは、自分が母と同じ運命を背負い、同じ苦境に立たされているのを感じる。そして、「望まれない」出産を敢えて選択するという行為を、社会への抵抗と人生への希望に置き換える。

 この結末は、映画の冒頭、アリアが歌っていた「アマル・ハヤーティ」(K.アフマド・シャフィク作詞、ムハンマド・アブデルワハーブ作曲)に通じないだろうか。すなわち、「私の人生の希望は、けして終わらない」。

アフリカ映画祭97 カタログに掲載したものに加筆訂正しました。


この映画は9月25日(木)に上映されました。
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