音楽への愛にあふれるチュニジアの人々 arab-music.com
松田嘉子のエッセー No.13

エル・アズィフェット 音楽への愛にあふれるチュニジアの人々
− エル・アズィフェット日本公演パンフレットより -

 北アフリカの、地中海に面した国チュニジア。紀元前には都市国家カルタゴが栄え、その後もたくさんの民族が興亡を繰り返した、ヨーロッパとアフリカとアラブの交差点である。音楽的にも、モロッコ、アルジェリアなどと共通するアラボ=アンダルース音楽の流れを汲む一方で、エジプトやシリアなど地中海の東側からの影響も強く受けており、たいへん豊かな場所である。
 チュニジアの人々は、概して開放的で明るい。友達どうしや家族の絆をとても大切にする。街角のカフェで、あるいは庭のテラスで、人々が延々とおしゃべりに興じている光景は珍しくない。香り高いミント・ティーか、濃いコーヒーがあれば、何時間でも時を忘れて過ごす。
 またアラブ音楽では歌がもっとも重んじられるが、チュニジア人も例にもれず歌が大好きだ。お祝い事や特別な行事で人々が大勢集まれば、必ず歌やダンスが始まる。たとえば結婚式。お酒が出るわけでも、豪華な食事が供されるわけでもないが、招待客は一晩中音楽を楽しんでいる。

 チュニジアにいわゆる近代歌謡が花咲くのは、おもに1920年代から50年代にかけてである。この頃から、都市における大衆の支持を基盤として、チュニジア人自身の中から出た歌手たちが、ステージにメディアに活躍するようになる。
 1934年、市長ムスタファ・スファルの呼びかけで、チュニスにラシディーヤ研究所が設立された。チュニジア伝統音楽の保存継承が目的であったが、そこで傑出した音楽家と詩人と歌手が出会うことにより、新しいチュニジア音楽もまた創造されることになった。主要な作曲家に、ケマイエス・テルナン(1894-1966)やムハンマド・トゥリーキー(1900-1998)がいた。彼らは芸術音楽の流れを汲みながら、チュニジア音楽に新局面を切り開いた。代表的な詩人には、ベルハサン・ベン・シャドリーやマフムード・ブルギバなど。そして、アリー・リヤヒー(1912-1970)、サリーハ(1914-1958)、ヘディ・ジュイニー(1909-1990)など、優れた歌手たちがつぎつぎと現れた。とくにサリーハは、類いまれな声を持つ不世出の歌手で、作曲家たちのインスピレーションの源泉であった。彼女が歌った名曲の数々は、今でも広くチュニジアの人々に愛され続けている。

 私がチュニジアのウードの巨匠アリ・スリティのもとで学んでいた時、時折り彼の家をたずねてくる品の良い老紳士がいた。ほっそりした身体にダークなスーツとネクタイ。なんとそれが、チュニジアを代表する大作曲家、あのムハンマド・トゥリーキーだと知った時は驚いた。バイオリニストだったムハンマド・トゥリーキーは、かつて自分の楽団を率いて国の内外で活躍したが、アリ・スリティもそのメンバーだった。以来、二人は親友なのだ。私が会ったのは1994、5年頃のことだったので、世紀の変わり目に生まれたトゥリーキーは、90才をゆうに越えているのは確かだった。しかし頭脳明晰、好奇心は旺盛で、そのような年齢をまったく感じさせず、音楽のこと、文化のこと、じつに話題は尽きなかった。
 トゥリーキーは、しばしば歌手サリーハの思い出を語った。「彼女は、それは美しい声をしていた。芸術を呼吸していたんだ。」その声が、彼の耳にはまだ響いているのがわかった。
 1998年に静かにその生涯を終えたことを、のちに彼の家族からの手紙で知った。最後まで、偉大な芸術家であった。

 私は今年1月、アラブ=日本音楽融合グループ「アンサンブル・ヤスミン」のウード奏者として、国際交流基金後援、チュニジア文化省および在チュニジア日本大使館主催によるチュニジア公演を行なった。私にとっては、かつてアラブ音楽を修行した土地への6年ぶりの訪問だった。モナスティール、スファックス、チュニスの3カ所で演奏したが、公演のセッティングだけでなく、広報活動から私たちの移動や宿泊に至るまで、チュニジア文化省と日本大使館の細やかな配慮が行き届いていた。その手厚い待遇には感謝に堪えない。
 プログラムには、チュニジアの伝統楽曲、あるいはケマイエス・テルナンやヘディ・ジュイニーの作品に加えて、ムハンマド・トゥリーキー作曲の器楽曲「サマイ・ブスタニカル」も入れた。やや通向けの選曲であったかもしれないが、演奏会にはチュニジアの著名な音楽家や批評家をはじめとして、耳の肥えた観客が大勢集まっていたので、反応は非常によかった。とくに、チュニスの国立劇場カトリエム・アールを埋め尽くした観客は、熱気にあふれ、素晴らしかった。あとで知ったことだが、エル・アズィフェットのリーダー、アミナ・スラルフィさんも聴いてくださったとこのことである。とにかくすべての地で、フィナーレは惜しみないスタンディング・オーベーションに包まれ、感激した。音楽芸術の喜びを、チュニジアの人々と真に共有出来る瞬間だった。

 エル・アズィフェットのレパートリーの大半は、20世紀チュニジア音楽の、もっとも華やかだった時代のものである。アミナ・スラルフィさんの父上、カドゥール・スラルフィも、そうした良き時代を、優れたバイオリニストとして過ごした人だった。彼女は言う。「私たちは、おばあさんも、お母さんも、娘も、一緒に歌える歌を歌うんです。」そして彼女のもとに集まった女性たちは、医者や弁護士などの職業を持ちながら、音楽への情熱からそれを学んでいる人たちである。
 歌をこよなく愛するチュニジアの人々。エル・アズィフェットの音楽は、そんなチュニジア人の、楽しい集いを感じさせる。とくにソロ歌手を置かず、歌はすべて全員のコーラス。親しみやすく、誰をも受け入れる音楽。チュニジアの、元気で優しい、女性たちの音楽である。

2001年10月国際交流基金外国文化紹介事業「エル・アズィフェット日本公演」パンフレットに執筆したものを転載しました。

エースジャパン・エル・アズィフェット日本公演のページ


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